20230519(古典的な問題)

今日は在来線で浜松まで行く。電車に乗る時間がだいたい5時間ある。暇すぎるので、古典的な問題をちょっと考えて暇を潰すことにした。はなくそみたいな文章だから暇な人しか読んではいけない。

○神様はいるの?という問

古くからこの疑問は存在しているし、子供のとき大人に尋ねた人も多いと思う。大体いるって答えが返ってくる。幼児は単純なのでそう言われると本当に神様がいると思う。しかし小学生も後半になると少しずつよく分からなくなる。なぜなら、「①誰も神様に会ったことはない」し「②理科の授業では天には天国ではなく宇宙があると習う」ので、素朴に考えると神様のいる証拠もスペースもないことになるからである。

子供が神様の存在を疑い始めるのはもっともなことのような気がする。神様がどこかに物質的に実在しているかのような話を聞かされてきたのに、自然科学からするとそうは思えない。しかし、自然科学により神様の物質的存在が否定されても宗教は(弱りつつも)生き残っている。では、何を思って神様を信じることが出来るのか、考えてみたい。

○言葉の定義

問題を考えるときに重要なのは、今自分がどんな問題を考えているのかを考えることである。問題が何なのか分かれば問題の答えは自然と分かる、みたいなことを偉い人が言った、というのをきいたことがあるようなないような。今の問題が解けない根本原因は、「神様」という言葉と「存在する」という言葉の両方が未定義語であることだと思われる。問題が分かれば答えが分かる、という偉い人の言葉を信じるとするなら、①神様とは何か、②存在するとはどういう意味か、という2つの問に答えれば、今の問題に対して何かしらの答えが見つかることが期待される。

○飽きた

ていうかこんな話、昔に賢い人がたくさん考えてるんだからまずは本でも読んで勉強するべきなんだよね。でも自分で考えるのも勉強するのも面倒だから誰か頭のいい人に教えてほしい。下手の考え休むに似たりと言うけど、私はそろそろ眠いので普通に休むことにする。いま何時だと思ってるんだ。こんなの書かずに寝た方がいいし、こんなの読まずに寝た方がいいよ。